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鉄道帝國日本その8

1906年6月。
 引き分けに近い勝利を手に入れた日本であったが、経済面では今だ低迷中であった。
それというのも、朝鮮での権利などの所在を明確にしただけで賠償金などの実益は殆どなかったからである。
 軍隊も今回の惨状を深刻に受け止め、状況分析を元に改善点を提示しあっていた。
そして11月。私鉄・官鉄の混在する現在の線路状況では戦地までの物資・兵員の輸送に時間がかかるという問題点を解決するため、大規模な併合が始まる事となった。

 多くの私鉄、そして日本鉄道へ併合され、各私鉄の鉄道技師達もまた日本鉄道の鉄道技師団と合流する事となり、技術力の切磋が始まった。そして、彼らの技術力の矛先は一つの議題へと辿り着く事となる。

 「120キロの蒸気機関車の開発…」
多くの鉄道技師達が詰め込んでいる鉄道作業局の会議室にて、島安次郎という鉄道技師が唸っていた。
 「島さんは関西鉄道に勤めていたときに早風の開発にも携わっていたと聞いたので、ぜひともこの開発に協力してもらいたいのです」
幹部の一人がそう言う。
 「この国の鉄道状況は高性能ではなく、汎用性の高さが必要になると思うのだが」
 「高性能で、高い汎用性をも持った機関車の開発が、上から命令です」
メガネをかけた幹部がそう書類を手に言う。
 「…まぁ、蒸気機関事態の出力はどうにかなるからそれは大丈夫だが…」
 そこまで言っても、島安次郎は渋っていた。
 「…安定性の基準にまでどうにか開発を進めてみよう」
その言葉に、会議場は活気にあふれた。

 「それと…津軽海峡を横断する地下トンネルの進行状況は?」
そんな活気の中、幹部の一人が隣の仲間に尋ねていた。
「既に青森の本土側からの工事は始まって、来年には北海道側からの工事が始まります。世界一長いトンネル工事ですからね…10年以上は掛かりますよ」
そうか…と幹部は答える。


かくして8620形機関車の開発が島安次郎を中心にここに始まる事となった。

 島安次郎の思想としては高性能より安定性・汎用性の高い機関車であるが、ここに国からの要望である120キロの高速機関車が入り、様々な問題が浮き彫りになった。
それを併合された各鉄道からやってきた技師達が1つ1つ丁寧に解決し、着々と形となっていった。
 そして12月。かくしてそれは完成する事となる。

高速列車を謳い文句に、それはすぐに大量生産が行われ、各路線へ配備される事となる

だが開発陣の思惑と他所に、列車乗車率と経済動向指数は低迷を続けていた。

1909年。7月。
日本議会にて、朝鮮に対する処置をどうするかが散々に話し合われた結果、当面保護国として工業化の後に独立させる事が閣議で決定された。これには一部軍部が反対したが、聞き入れる事はなかった。
10月。
朝鮮にて、ハルビン行きの特別列車が途中停止していた。
朝鮮統監である伊藤博文が高熱を患い、治療の為下車して漢城(ソウル)の病院にて治療を受けた。
幸い命には別状はなく数週間の後に退院し、ハルビンへ再び赴く。

その際にはハルビン駅にて銃を持った朝鮮人の青年が博文の直属の護衛隊に逮捕されていた。発見が遅れていたら暗殺の危険すらあり、この事件は大々的に報道された。
だが、取調べの後に驚くべき事実が判明した。どうやらこの暗殺未遂事件の裏で朝鮮併合を望む一部の陸軍が関与しているという事が判明し、徹底的な検挙がされる事となった。

様々な政治的な変動を他所に、ひた向きに営業を続ける国営鉄道。

1910年9月。
経済動向指数が92を超えた。
これにより、日露戦争での傷は癒えたかに見えた。
だが、軍部では先の暗殺未遂事件もあり、大規模な方向性の切り替えが行われていた。
大陸への性急な利益獲得への攻勢体制から、海軍を中心にした機動的・効率的な防衛体制への変更であった。

1911年11月。
敦賀~京都間の路線の敷設を完了し湖西線が開通した。
1913年7月。
ディーゼルエンジンを使用した気道車部門を立ち上げる。
数ヵ月後、エンジンが完成するも、後は軍部による開発に移った。
 1914年2月。
前々から開始されていた青森~函館間の津軽海峡横断トンネルの建設が完了した。
10年以上掛かるとされていた工事であったが、政府や軍からの援助支援により工事は驚くほど進み、ついに今日へとたどり着く事ができた。
1914年7月。
東欧のバルカン半島のサラエボにて、オーストリア帝國の皇太子夫妻が暗殺される事件が発生。
オーストリアはセルビアへ宣戦布告。そしてオーストリアはドイツと同盟をしていた為にドイツも宣戦布告。

そしてセルビアはロシアと同盟をしていて、ロシアはフランスと同盟をしていて、イギリスと協商同盟を組んでいたため、これらの国々も宣戦を果たす。

 こうして見ると、世界の大半を支配していた列強達が軒並み各陣に分かれて戦争をしている事となった。
 かくして第一次世界大戦、まだこの時代ではヨーロッパ大戦が始まる事となる。

 8月。
日本はイギリスと同盟を組んでいた為、ドイツへ宣戦布告をする事になったが、その後の動きは史実とは大きく異なった。
 日本はイギリスの植民地である南方諸島や中国の各都市への防衛目的で駐留はする程度であった。軍隊の組織人事に夢中であり、対外的な行動は控える気運でもあった。

本土では大戦特需により経済が活発化していた。
 そして11月。開発を進めていた新型蒸気機関車C51形が完成すると、すぐさま路線へ配備していかれた。
C51形は140キロの速度であり、8620形以上の整備性・汎用性の獲得に成功していた。
 140キロで走る通行手段は瞬く間に浸透し、大戦特需で一儲けしようとする資本家達に大きな助けとなっていた。

1915年。年が明けても戦争は終わる気配をみせなかった。
 ドイツ軍の飛空船による爆撃やUボートという潜水艦による通商破壊、飛行機による戦闘などなど…従来の戦争とは比べ物にならない新しい戦術が出現していた。
特に潜水艦による通商破壊は、様々な資源を輸入して現在の生活を成り立たせる島国日本にとって無視できない重要で厄介で凶悪な作戦であった。

そんなこんなで5月。
越後湯沢~直江津間の北越線の敷設を完了し、いわき~郡山間の磐越線も敷設を完了した。
国鉄開発陣は新たな目標である『主要都市間をつなぐ超特急線』の構築をしていた。
欧州大戦のおかげで日本は全体的に安定した発展を遂げており、会社で働き安定した給料を得る中級層の出現で、鉄道の役割が変わろうとしていた。
今まで鉄道とは、田舎の安い労働力を工場のある都市へと運び、工場のある都市から品物を港町へ運び、港町から入ってきた資源や品物を各都市へと輸送する物だったのに対し、この中級層の出現により、休日を使った旅行という概念が現れたのだ。

この気運を最大限に活用する方法。それが『主要都市間をつなぐ超特急線』であった。
例にもよって、この構想の中心は島安次郎。当の本人は『弾丸列車計画』と勝手に呼んでいた。
ゆくゆくは物資の輸送にも役立てたいということで、新型の機関車をも開発している。
一方、電気車両に関してだが、これも115キロ近くにまで開発が進んでいた。
1915年8月。
やはり夏になっても欧州大戦が終わる気配はなく、国鉄は鳥取~愛媛の智頭線を建造を終えた。

経済動向指数は94。
日本は日露戦争の傷から立ち上がり、順調に経済を発展させて行っていると言える。
日本鉄道地図その7
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テーマ : 歴史小説
ジャンル : 小説・文学

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2011年2月16日導入
プロフィール

テト式

Author:テト式
24歳。がくせ…介護職員です。
東方厨だと思ったら艦これに裏切ったけど小鈴ちゃんが可愛いから那珂ちゃんのアイドルやめます。
艦これはやってません(迫真

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