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鉄道帝國日本その七

その後というと、まったくもって何事も無く、1902年は終わり、1903年が始まった。
1903年2月に会津若松~新潟の路線が繋がった。
3月には大阪にて始めての外国から出展を受け入れた内国勧業博覧会が開かれ、日本鉄道からは幻のお蔵入りと化した230形蒸気機関車や研究中の蒸気機関などを出展した。
 鉄道関係者からは一定の良い評価を受けた。特に新型の蒸気機関は全体でも抜きん出た評価を受け、機関の開発者達のとりあえずの気力の上昇に貢献した。

その後も、順調に発展を続ける日本であったが、ついに1904年を迎える。
2月を向かえ、日本はついに旅順の港の近海に存在していたロシア海軍に攻撃を開始。
 かくして泥仕合となる日露戦争が始まる事となる。
ロシアはフランスと同盟を組んでいて、ロシアはフランスに軍事要請をするも、日本の後ろにはイギリスがいたためにフランスはこれを拒否。
 日英同盟の効果で抑止力となってか、日本とロシアの1対1のサシでの勝負となるが、最大HPとかMPとか、全面的な意味でのステータスではロシアの方が全然上過ぎるので勝負にならないんじゃないかというのが世界列強達の思想であった。

そういった経緯なのかは知らないが、トレビシック兄弟はこの年に母国イギリスへと帰国している。

神戸 トレビシック兄弟邸。
「…もうここへは戻ってはこないだろうな」
荷造りは完了し、あとは鉄道で大阪の大きな港へ行って母国へと帰るだけなのだが、名残惜しそうにフランシスは言う。
「日本は勝てるのだろうか、あの凶暴なロシア人に」
弟のヘンリーが言う。
「わからん…。が、負けはしないんじゃないかな。これは私の感だがね」
「…というか、今気づいたんだけど、僕は54歳で兄さんもう59歳なんだね…ならもう戻ってこれないかもね…年齢的な意味でも」
「今頃気づいたか、馬鹿者め」
フランシスはかすかに笑う。
「神戸の仲間達はどう思うだろうか。戦が怖くて逃げ出す臆病な外国人としてあざ笑うか、それとも途中で投げ出す卑怯者か」
「…そんな事思ってないよ」
「なぜ分かる」
「これだよ」
ヘンリーは懐から手紙を渡した。
「今朝、妻が渡してくれたんだ。…工場の皆からだよ」
フランシスはそんな声も聞かないまま、黙ってその手紙を読んでいる。

「…あいつらめ、私がいなくなってもとことんやる気か」
しばらく読んでいたが、一通り読み終えると、目に涙を浮かべて声を捻り出すように喋った。
「…行こう。兄さん。そろそろ時間だ」
ヘンリーも涙を浮かべ、静かに言う。

その後、兄弟はイギリスへと戻り、兄フランシスは1913年。1931年まで生きたとされる。


そんなこんなで1904年3月。
 日露戦争は日清戦争より桁違いの特需を生んでいた。
史実では輸送した人員は『日露戦争全体』で88万6千人、馬13万8千頭、貨物26万2千トンとされているが、既に日本全土に鉄道を張り巡らせているこの世界の日本陸軍は230形を軍事転用している為に莫大な物資をピストン輸送していた。
だが、官営や私鉄などが点在している為にダイヤ編成が乱れ、うまく機能できずに詰まってしまった部隊も少なくない。

しかしながら、日清戦争での教訓により、即座に敷設可能な路線敷設工作部隊や鉄道部隊の活躍により戦地での補給は順調であった。
 むしろ、途上国の悲しみにより送る事は簡単だけど、その送る物資がないという事態にもなっていた…という事が後の分析により判明するが、今は捨てて置く。今後も捨てる。

それからしばらくの1904年10月。
日本軍は列強のロシア軍相手に、順調に苦戦しつつも善戦していた。
当初は特需で沸いていたが、戦争状態という事で経済活動は下火になっているのが要因で、経済動向指数は80と低迷していた。
そんな中、西洋にて珍事件が発生した。
8月にロシアはバルチック艦隊が太平洋派遣が決定し、10月にいよいよ艦隊が出撃し、日本海軍に緊張が走った。
が、その直後、思わぬ事件が発生する。
バルチック艦隊がイギリスの漁船団に突如として攻撃を開始。なんでも日本軍の水雷艇だと誤認して攻撃をしてしまったらしい。
当日は濃霧がひどく、しかも先行していた艦が通信が不調だという事もあり、状況の確認が取れずに半ば混乱状態で攻撃をしてしまい、状況が納まり始めると、艦隊長官は怒り狂い。「よくもこんな馬鹿なことがやれたものだ、よく見ろ、あれは漁船だ。」と怒鳴り散らしたといわれる。

しかもイギリスはその日、ナポレオン時代のフランス艦隊との海戦であるトラファルガー海戦の勝利記念日でもあってか、散々に痛めつけられた漁船団を見て奮起しトラファルガー広場で「蛮族に断固なる処置をすべきだ」とデモを決行。
結局、バルチック艦隊の長官や軍の偉い人達が全力で謝罪して、犠牲になった漁船団の船を弁償したりでイギリス人の怒りはどうにか収まったが、それでも反ロシア・親日感情を芽生えさせるに十分な事件であり、この事件のせいでイギリス植民地の港はすべて受け入れを拒否したので補給作業や休暇ができず、ヘトヘトな状態でアジアへと向かう事となる。

そんなこんなで1905年。三月。満州の奉天にて始まった会戦に日本軍は勝利をした。
既に戦場は満州へ移り、補給も思うように行えずに荒い息での戦いであったが、日本軍は勝利した。
 ロシア軍もまた1月に首都であるサンクトペテルブルクにて大規模なデモが起こり、大量虐殺するなど、国民感情は限界になっていたという事もあり、戦略的撤退を余儀なくされた。
 しかし残念ながらロシアにはまだバルチック艦隊が存在しており、かならずや日本に鉄槌を下すだろうと楽観していた為、日露講和は思うように進まなかったとされる。

日本国内でも、その報に沸き、さらなる戦果を望む声が出て戦争続行を望んだが、国力は既に限界に近かった。
経済動向指数は3月末には76にまで落ち込み、やはり限界が近かった。

その後5月に入っても経済の減少に歯止めが利かなかった。
そしてその5月の半ば。ついにバルチック艦隊が日本海へ到達し、かの有名な日本海海戦が始まった。

『天気曇リナレド、波タカシ』の偵察艦の報を聞き、日本艦隊は全力でもってこのバルチック艦隊に攻撃を開始。

結果は、確かにロシア艦隊に壊滅と言って良い戦果を挙げた。



 しかし、その戦果と引き換えに、日本海軍は旗艦三笠を初めとする戦艦は大小の打撃を受け、東郷平八郎長官は三笠被弾時に重症を受け、海戦終了後、事切れるかのように戦死した。
 作戦上、何も問題はなかった。ただ「打ち所」が悪かった。非常に悪かった。ただそれだけである。
しかし即死ではなく、しかも意識がかろうじてあったのが幸いして、「旗艦ニ命中。サレド健在ナリ」との電信が送れた事もあり獅子奮迅の活躍により史実以上の戦果を挙げられたのは皮肉か、あるいは奇跡か。

それでも日本海軍は勝利を掴む事ができた。10隻以上が沈み、半数が損傷を受けたが。

日露双方に大きなダメージを受けた為、アメリカは調停を開始した。
痛み分けの形であるものの、ロシアもこれ以上の疲弊は流石にマズイという事で講和に向けて前向きに検討し始めていた。
8月には講和会議をアメリカのポーツマスで開催し、事実上休戦という形となった。
そして9月。日露講和条約が締結し、戦争は終わり、かくして日本は史実と少し違った歴史を歩む事となる。

 日本国民は日本海海戦での辛勝を重く受け止め、国力的に無理をしていたという事を理解していた為に、賠償金のないこの講和をそれなりに受け止めていた。
 それでも一部の狂信的な愛国者達によるデモがしばらくの間続いたが、それも一時的な事であった。
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テーマ : 歴史小説
ジャンル : 小説・文学

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タイトル
2011年2月16日導入
プロフィール

テト式

Author:テト式
24歳。がくせ…介護職員です。
東方厨だと思ったら艦これに裏切ったけど小鈴ちゃんが可愛いから那珂ちゃんのアイドルやめます。
艦これはやってません(迫真

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